私達のチームでは今回の「東北のいのり」という学習テーマの題材に、『刀』を選びました。
刀は昔、突き刺すのに適した、真っ直ぐな形をしていました。しかし、戦いの方法が変化し、馬に乗って相手をなぎきることが多くなったために弓なりに曲がった刀が作られるようになります。
そんな反りのある刀として最も早くあらわれたのが「蕨手刀」。柄の先の形が蕨の若芽に似ているのでこの名前がつけられました。
蕨手刀はそのほとんどが出土で、分布を見ると東北・北海道に大きく偏っているのがわかります。奈良時代から平安時代と、使われていた期間は比較的短いですが、日本の刀剣上でも重要な位置を占めるものと考えられています。
奥州藤原氏のもとで刀を製作していた平泉の刀工達は、刀の鍛え方や使いやすさをさらに求めていきました。奥州舞草(現在の岩手県一関市舞川地区)に住んだと伝えられるかつての刀鍛冶の集団が、刀の変化に大きく関わったと言われています。
「蕨手刀」から発展した「舞草刀」は、平安時代に作られ、その後に全国の鍛冶に影響を与えた「日本刀の原型」であるとされています。
古い書物には、舞草刀などの奥州の刀剣が、都で評判となったと書き残されていて、源氏や平氏の宝刀とされたとも伝えられています。
長い間に積み重ねられた優秀な技術、蝦夷や藤原氏などの大きな勢力や、中央政権との長年の戦いがあったこと、刀の材料となる良質な鉄鋼製や砂鉄が手に入りやすかったことなどが理由と考えられています。古い刀剣書には、奥州の刀鍛冶が優秀であったこと、その活動の場のひとつが舞草であったことが記されています。
ではどのようにして“全国の鍛冶に影響を与えた”のか。
それは、源頼朝の奥州討伐によって舞草鍛冶のほとんどが戦利品として全国へ散らばることとなり、各地で別の刀派になったためです。京都の刀匠である「三条宗近」も東北出身の刀鍛冶だという説があり、東北の人間が蔑まれる中で刀を作った地名の「三条」を名乗り、東北と変わらない月を見ていた、なんて話も。尽きないですが、知れば知るほど、美術的観点だけではない日本刀の価値がみえてきました。
ここから、私達は、さらに様々な視点から刀を見つめていくことにしました。
[参考]
宮崎政久『日本刀が語る歴史と文化』株式会社 雄山閣 2018年
岩手県立博物館展示資料
一関市博物館展示資料
中鉢美術館館長さんのお話